2011年03月

 自宅は計画停電の地域から外れている。病院やNTTの
中継局があるためではないか、と勝手に推測している。
職場ではしっかりと停電になるので、その時間はじっと
ガマンしながら電気を使わないで済む仕事に勤しむ。
 考えさせられる毎日だ。
被災地の人たちの苦労や停電の地域の方の不便を
思いながら、節電に努める。するとふと幼かった日の頃を
思い出す。夕飯時の灯りはこのくらい暗かった。暖房は
電気を必要としなかった。風呂も灯油で沸かしていた。
トイレは寒いところだった。パソコンはもちろん無かった。
 今更そこへ戻りたいとは思わないが、電気に頼り切った
今の生活があるために、原発を必要とし、そのために今
つらい思いをしている人がいるかと思うと、複雑な気分だ。

 石原都知事が「天罰」発言を謝罪、撤回した。
あの立場の人が、公の場で発言した内容としては不適切だとは思うが、
昨今の首都圏物資買い占めパニックを見ていると、自分も都知事に賛同したくなる。
 
11日震災当日夜、スーパーでカップ麺の棚が空になっていた。
12日朝、ガソリンを入れに行くと行列ができていた。
13日昼、ホームセンターに行くと、電池・懐中電灯が売り切れており、
スーパーではミネラルウォーター配布所に大行列ができていた。
14日、計画停電が予告され、原発の不安が報道されるようになると、もうとまらない。
連日スーパーやガソリンスタンドでの売り切れ・閉店の報道が流れ、
それがまた一般市民の不安をあおり、さらなる大行列を生む。
立ち寄ったコンビニの店員の話でも、知り合いのスタンド店員の話でも、
入荷量はいつもと変わらないが、必要以上に買い込んでいく客が多くて
このような事態に陥っている、と言うのだ。
石原知事の言葉を借りれば、これこそが「物欲にまみれた」日本人の姿なのだ。
今、悲しみと寒さに打ちひしがれている被災地の人たちにではなく、
我欲にまみれた人々にこそ「天罰」として津波に襲われてしまえ!と思う。
 
一方では緊急時のマナーや略奪が起きない道徳性の高さを絶賛されていながら
この体たらくは何だ!と一喝したくなる。石原知事もそう言えば良かったのだ。
 
結局は物に満たされていないと安心できない精神状態ができあがってしまっているのだ。
トイレットペーパーが余分に無いと、ガソリンが満タンでないと、食料が冷蔵庫に満載でないと
不安で不安でしょうがなくなって、被災地やちょうど無くなって本当に必要としている人のことも
配慮せずに買い漁る。それがここ数日の首都圏の現状だ。
今こそ、節電・停電も含め、必要以上の買い占めを控え、不要な外出も控え、
被災地に救援・救済に向かう活動の妨げにならぬよう節制に努めることが
無事、難を逃れた我々にできることのうち、最も重要なことのひとつであると思う。
 
不便さに対して、説明不足について、文句のひとつも言いたくなるだろう。
しかしこの国難に対して責任者はそれぞれの立場で全力を尽くしていると信じる。
ひとつの決断を下すにも相当の覚悟が必要な状況が数多く存在すると思う。
それぞれの立場で下した決断に敬意を表し、それに全力を挙げて協力をしていくことも
世界から評価されている「日本人」としてのあるべき姿なのだと思う。
 
今自分が普段と変わりなく生活できていることの有り難さをかみしめつつ、
自分の立場でできることに全力で取り組んでいくことが、被災地で苦境にあえぐ人たちの
「元気」につながることだと信じて、精一杯生きていきたい。
 
そんなことを思った、が、語る相手もいないので、ここに書いた。
 
 

 卒業式が終わってホッとしていた矢先に大地震がやってきた。
解体間近のぼろ校舎から飛び出し、ネットやワンセグで状況把握に
努めるも、各地で大混乱の様相。次々とやってくる余震と被害情報。
丸2日経った今も、被害の全体像は掴めていないのではないか。
大変なことになった。政府は救出と復旧に全力を挙げてもらいたい。
自分もできることを全力で行っていきたい。
 それにしても不思議なのは、当日夜スーパーに行った際、カップ
ラーメンの棚が空になっていて、缶詰の棚がほとんど手つかず
だったことだ。群集心理というものはまったくもって不可解だ。

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